2022年8月19日
『 人は変われる 』
前回は、バスケットボールについて語りました。
勝ち方というよりも、勝つための考え方。
しっかり守って、効率よく攻める。
確率の悪いシュートは打たない。
ダメだと思ったら、もう一度仕切り直す。
そんなお話でした。
今回は、私のとても恥ずかしいお話に触れてみたいと思います。
とてもカッコ悪い話です。
私が生まれたのは山陰などではなく自宅。
早産だったようです。
体も弱く何度も入院したと聞いています。
それは以前もお伝えしたとは思いますが、親不孝者でした。
でも、近所の友達や後輩たちとはヤンチャに遊び近所の人たちに怒られたモノでした。
積極性はなく人見知りでなかなか人の心に入る事ができず自分の心の中も見せる事ができない気の小さな子供でした。
しかし、なぜかスポーツはできる種目が多く、走るのも早かったことを覚えています。
勉強は、ほぼせずに悪い点を取っても悔しさもあまりなかったように思います。
ただ、不思議なことに人から好かれる子供だったと思います。
だから、イジワルされたことは記憶にありません。
そんな不器用な人間であったので特に目立つような存在ではなく、得意なこともなかったので存在意義もなかったのかもしれません。
ウダツの上がらない人生を送り、惰性で進学しようとだけは思っていましたが、世の中そんなに甘くはなく大学受験にも失敗し、浪人生活を余儀なくされました。
一年浪人して、何とか大学に入ったのですが、挫折人生の成れの果てに大きく人生が変わる出来事が訪れたのです。
私は、中学後半から「ブリティッシュ・ロック」に興味があり、たいしてエレキギターが上手かったわけではなかったのですが、どうしても「バンド」をやりたいと思いから「軽音楽同好会」いわゆる「軽音」に入学と同時に入部しました。
私と同じような変な新入生が何人か同じ時期に入部してきて人見知りの私でしたが、なぜかそんな変人達とすぐに仲良くなり、毎日毎日練習場に行き、仲間や先輩と楽しい時間を過ごす毎日でした。
しかし、そんな生活は屈折したものです。
いつしか、授業を軽んじて多くの単位を卒業できないくらい落としてしまいました。
バンド活動も一番楽しめた2年生の時です。
人生で、単位を落とすイコール卒業できない状態になって、悩み落ち込み道を失った弱い自分を恨みました。
そして、当時付き合いだした彼女にも「しっかりして〜」と檄を飛ばされ、いつしか距離を置くようになり破局を迎えました。
せっかく、1年浪人して迷走しながら入った大学なのに、自分の愚かさからこのままでは中退になってしまう。
耐えられないほどの自己嫌悪でした。
今まで、それほど挫折感というものを感じない呑気なタイプでしたが、さすがに中退で軽音楽同好会もやめなければならない屈辱。
自分が望んでいたものを全て失うという愚かさに立ち上がれないほど世間や大学を舐めまくっていたと思います。
この経験は、私の人生を変えました。
というより変わらざるを得ませんでした。
多分、こんな気持ちになったのは人生で初めてだったと思います。
本気で限界まで挑戦しようと決意したことはありませんでした。
私は何度も何度も自分を責めました。
そして、自分自身を全否定しました。
その時、不思議なことにふっと「全てなんとか失わずに済む方法はないか?」と不思議な考えが浮かんだのです。
そういう考え方が、あの窮地の状態で頭の中に浮かんだのはなぜだったのでしょうか?
つまり、絶対に失いたくないと心底思ったから知恵を出せと自分に指令が出ていたのかもしれません。
そして、半年間だけ全てを全力でやってみようと自分へ最後通達のような挑戦の狼煙を上げる結果となりました。
第三者からすれば、それほどのことなの?とお思いになるかもしれません。
「何年もかけてでも卒業する人もいるでしょ〜」と思うかもしれませんが、その時の私の心情は地の底状態だったので、そんな余裕はなかったし、そんな選択もありませんでした。
とにかく、講義は一番前でノートもこんなに書くかというくらい必死に受けました。
一語一句書いたというような感覚だったと思います。
そのパワーの源は、「もう一度バンド活動する」という強い思いからでした。
倒れるくらい頑張るというスタンスに挑戦していました。
これは、言い過ぎに感じるかもしれませんが本当にそう考えていたしそう行動していました。
私と遊んでくれる友達も「0」に近いほど減りました。
軽音楽同好会も見通しがつくまで行かないと決めました。
結果を出さねければ、私には明日はないと鬼気迫る感覚だったと思います。
長かった髪も、スポーツ刈りにして最悪でカッコ悪い自分になりました。
ロッカーは、カッコ良くなければならないという自論がありましたが、全て捨てました。
自分にはもう何もないという状況になりたかったのです。
そして、半年が経ち自分自身で先行きの見通しが付きそうだと思えるところまできました。
自分で言うのもなんだけれど、俺は人生で初めて自力で駆け上がる事ができたと思えた瞬間でした。
その代わり、後輩から受けられなかった講義を手取り足取り恥を偲んで図書館で聞きました。
後輩と一緒に講義も出席しました。
「研究室」の後輩や「軽音」の後輩にも恥ずかしながら世話になりました。
結果を出すためなら恥もかなぐり捨てて、なんでもやってやろうと必死で頑張りました。
人格を捨てようと思っていたのでプライドも当然ありませんでした。
恥をかくことを躊躇する立場の人間ではないと思っていたので自分を変える事ができたのは、この考えと感情のおかげでもあると思っています。
そして、望んでいた「卒業」の文字が完全に見えてきたのです。
これなら「バンド活動」に戻れる。
少し心に余裕ができました。
私は、大好きな「ロック」「バンド活動をやりたい」と言う原動力に救われたのです。
やればできる。頑張れるじゃないか?
自信が沸々と湧き上がってきて、何がきても乗り越えられるぞという自信が持てる自分に変化していきました。
その後の人生は、このことだけではありませんが弱く自信のない自分から脱皮して、変われたのです。
人は変われます。
辛く高い山があるなら越えてみようと思うようになりました。
逃げない勇気をもらったように思います。
それまで、いい加減な気持ちの人間でしたが、前に前に進もうという人間に少し近づけたように思います。
長男で、不器用で、気も弱くて、勇気もなくて、自分に甘くて、どうしようもない存在感のない人間でした。
人前でもあがり症で、うまく話せない典型的な人間でした。
でも、頑張ることで少し自信が出てきます。
頑張ってやれたことによる自信です。
次第に性格も明るくなり、人見知りも次第にあまりしなくなり、嘘のように人生が好転しているように感じました。
人とは、本当に変われるのですね。
自分は、こう言う人間だからと決めているのは、他ならぬ自分自身だったと気づきました。
こんな私でさえ、修羅場を与えられて少しは乗り越えられつつあ流ように思います。
別に偉そうに言えることは未だに何もありませんが、勇気をもらえた大きなきっかけだったことは確かです。
その後、昔の自分だったら絶対に腰が引けてできないようなことも挑戦し、きっと越えられるという自信のような感覚が自分の中にあるのではないかと言う感覚になってきました。
でも、人生は越えればまた次々と難問題が訪れます。
いいことはほんの少しで、辛いことはすぐにやってきます。
越えても越えても山がやってきます。
心が折れそうになることも「変われる」という信念のようなものを信じてこれからも不器用でも歩んでいけたらと思っています。
人生とは、きっとそんなこのなの連続なのだと思っています。
気持ちが下がっても自分で良い方法や知恵を絞り歩んでいきたいと思っています。
だからこそ、自分を支えてくれるのは「家づくりが好き」と言う気持ちと「お施主さまが喜んでくれる顔や言葉」があれば、頑張れる気がしています。
私だけがそう思うのではなく、社員もきっとそうでしょう。
生きていくということは、誰もがそう言う大きくて重い荷物を背負って歩んでいくと言うことではないかと思います。
コロナ禍が多くを投げかけ、我々人類は逞しく知恵を絞って歯を食いしばって歩んでいくこと。
きっと、試練を与えてくれているのだと思います。
「こんなに資材が上がってしまっています」
「こんなに資材が入ってきません」
でも、私たちを信じて期待しているお客さんに応え続けていきたい。
そして、これからの社会の中で幸せになれる住まいはどんなものなのか?
全力で探り考え進めていきたい。
人間だけに与えられたと言う未来を想像しイメージする事ができるという能力を駆使して前進あるのみですね。
またまた長々とカッコ悪い話を赤裸々に恥ずかしげもなく書いてしまいました。
勢いで描いちゃったって感じです。
次回は、何を書いたらいいかな・・・
逆に書きにくくなってます。
あー恥ずかしい(汗)
気を取り直して次回も色々と書きますよ。
お付き合いをよろしくお願いします。